南方熊楠 生誕の地

生誕の地、和歌山市橋丁に南方熊楠の像があります。




南方熊楠生誕地碑文

 紀州和歌山が生んだ巨人・南方熊楠は慶応3年(1867)4月15日、ここ橋丁で誕生した。5年後南隣りの寄合町に移転、この周辺で少年時代を過ごす。青年時代にアメリカ、イギリスで独学し、帰国後は田辺に居住、在野で学問一筋の生涯を送り、昭和16年(1941)に死去した。彼の研究は博物学、宗教学、風俗学など多くの領域にわたるが、生物学、特にキノコや粘菌など隠花植物の世界的な学者であり、また日本の民俗学創設において重要な役割を果たした。他方、環境保護に先駆的に取り組み、近代日本の独創的な思想家として高い評価を受けている。



 世界的な天才博物学者である南方熊楠は、慶応3年(1867)和歌山市橋丁の金物商南方弥兵衛(39歳)、妻スミ(30歳)の次男として、生まれました。
 幼いころから人並みはずれて賢く、記憶力も素晴らしかった。4歳ぐらいのころ、隣家から植物の本をもらい、たいそう喜んでそれを見て、大切にしたという。小学校に上がるころには、既にかなり多くの漢字を知っていた。
 生まれつきの優れた才能は、小学校時代も目立ち、父弥兵衛はその才能を伸ばすため、当時の商人の家としては珍しく、開設されたばかりの和歌山中学(現、桐蔭高校)に入学させた。この間、10歳のころから蔵書家を訪ねて書物を見せてもらい、記憶して家に帰って、それを筆記した。現代の百科事典にあたる「和漢三才図会」105冊も、何年もかかって図まで書き入れて完成した。
 1883年(明治16)3月、和歌山中学を卒業して上京し、神田の共立学校で勉強した上、翌年大学予備門(後の旧制第一高等学校)を受験して合格、入学した。同期生には、正岡子規、夏目漱石、山田美妙(びみょう)らがいた。しかし、学校の授業には興味を覚えず、戸外に出て考古遺物や植物、貝類などの標本を採集することが多かった。鎌倉・江ノ島や日光に旅行して、やはり同様の採集を試みた。このころ、アメリカのカーチスという植物学者が菌類(キノコ・カビなどの類)を6000点集めたと聞き、それ以上の標本を採集しょうと思い立ったりした。
 こうした有り様で、学業には精を出さず、学年末試験に失敗したこともあって、1886年(明治19)2月帰郷し、アメリカに渡って勉強したいと父に申し出た。当初は反対していた父も、その熱意に負け渡米を許した。
 その後、イギリスの大英博物館で考古学や人類学を研究し、明治26年(1893)イギリスの科学雑誌「ネイチャー」に論文が掲載されたりします。帰国後は、植物の宝庫といわれる田辺市で粘菌の研究に励み、「ミナカテラ・ロンギフィラ」など70種もの新種を発見しました。
 昭和4年には、紀南地方を訪問された天皇陛下に粘菌の標本を手渡し、さらに昭和37年に再び来られた天皇陛下は「雨にけふる神島をみて紀伊の国の生みし南方熊楠を見ふ」と熊楠を偲んで詠まれました。





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