市駅周辺の歴史散歩

「第六回ヒストリーツアー(歴史的街並み巡り)市駅編」

                                   2000.6.24

説明:中西重裕氏(わかやま青年パーティ代表)
(株)一級建築士事務所スタジオハルピン代表
わかやま青年パーティは6月24日(土)、「第六回ヒストリックツアー(歴史的街並み巡り)」を開催しました。ヒストリックツアーは「再発見和歌山の景観」をテーマに毎年開催されています。今回は「市駅編」と題して和歌山市駅周辺で歴史散歩を行いました。午後1時半に南海和歌山市駅前に集合し、中西代表の解説で、勝海舟寓居地、南方熊楠生誕の地、伝法橋、水天宮、西本ビル、水門神社、七曲市場、正住寺を巡りました。

大阪難波から電車で約1時間で到着する和歌山市駅。
私達はこの駅を "市駅" と呼びます。
市駅周辺にも多くの見どころがあります。

1.勝海舟寓居地

 文久3年の夏、1863年頃で大体今から140年ぐらい前の話なんですね。当時は日本も開国するということで外国から船が日本にやってくる時に、特にこの紀伊半島、和歌山のあたりっていうのは、ちょうど船が来る紀伊水道っていうのは一番防衛の要なんですね。友が島もそうなんですけれども加太にも沢山砲台跡があるというのを聞いたことあるし見られた方もいるかと思うんですけれども、そういう明治のはじめ頃から出来始めた砲台跡なんかを今後使えるかどうかというのを検分しに来ていたんですね。勝海舟は。10数名で来られてですね、丁度この場所は杭ノ瀬さん(杭ノ瀬質舗)が場所を提供されて碑を出しているんですけれども、元々来られた時はもうちょっと川寄りで現在小児科がありますけれども川寄りの「清水平右衛門」という両替商の豪邸があったんですね。そこで数日間滞在されたそうです。

2.南方熊楠生誕の地

 近くの橋丁には世界的な植物学者「南方熊楠生誕の地」があります。慶応3年金物商南方弥平衛の次男として生まれました。幼少から読書を好み、記憶力に優れ、当時の大百科事典 "和漢三才図絵" や "本草綱目" などを筆写しています。雄小学校、和歌山中学校を経て東京の共立学校に入学。大学への入学を果たさず二十歳で渡米。6年間アメリカに滞在し、明治25年にロンドンへ渡り、大英博物館へ通い、やがてその学識才能を認められていきます。科学誌ネイチャーや随筆紙に多くの論考や寄稿をし、その名を知られるようになってきます。明治33年に帰国。やがて田辺を永住の地として昭和16年に亡くなるまで37年間その地で過ごし、粘菌・菌類の調査や民族学の研究、また明治末期の神社合ひの反対運動に奔走しました。

3.寄合橋

 寄合橋は内川に架かる橋の中で最もきれいなシルエットを持った橋のひとつである。寄合町から湊本町に架けられ、かつてこの辺りは昌平河岸と称し天保時代より明治初年まで各種物産の荷揚場として大変賑わった。橋の東詰には火の見櫓・番所があり、西詰には高札場が設けられ、北詰にある酒造会社(世界一統)の場所は五代藩主吉宗によって武士の子弟のための学校が建てられた後に藩校学習館として幕末までの150年もの間、紀州の儒者が木造橋時代の寄合橋を往復していたのである。
 和歌山城の外堀市堀川には多くの橋が架かっていました。江戸時代には、"寄合町" "卜半町" "駿河町" "福町" は、四丁町(よんちょうまち)と呼ばれ裕福な商人の町で、寄合町には「寄合橋」が架かり、橋のたもとには火の見やぐらが設けられていました。

 現在の橋は昭和16年に完成した鉄筋コンクリート橋で、橋のたもとに二ヵ所ずつ灯火の親柱があります。昭和20年7月9日和歌山大空襲よって橋の周囲にあった酒蔵群や商家は全滅した。今の風景から知る由もないが寄合橋だけは焼夷弾の落とされた痕跡を現在に伝えています。

寄合橋から世界一統の方へ
歩く参加者
藩校跡の説明を聞く

4.伝法橋

 寄合橋の架かる市堀川を北に進みクランクして西に進むと伝法橋がある。伝法橋は元々、西蔵前丁から伝法橋南之丁(市堀川を挟んで市民会館後方)に架けられていたが、大正6年に現在の位置に架け替えられた。伝法橋は天正13年3月豊臣秀吉が紀州根来寺を焼封後、同寺内の焼け残った大伝法院堂の材を京都に運ばれたが、一時ここに置いたので「伝法」なる名称が起こったものであるという。明治以降、和歌山では綿布を起毛して羊毛のフランネルのように加工した織物の綿ネル生産が盛んで、紀州ネルと呼ばれ、伝法橋の南の広大な敷地に和歌山紡績が工場を構えていた。現在の橋は昭和28年に完成したPC橋です。

5.水天宮

 紀ノ川近くの材木橋のたもとにある水天宮の近くに置かれた「二宮尊徳」像。南方熊楠の 通った雄小学校から移されて来たのであろうか。二宮尊徳こと金次郎が好んで使った「積 小為大(せきしょういだい)」小を積み重ねて、大を為す。小さなことを積み重ねでしか、 大きな事業は成し遂げられない。現在でも大変重要な考え方ではないでしょうか。

6.西本ビル

 和歌山市駅前を通る大通りから南西方向に通りを進むと3階建ての実に堂々とした建物が現れます。基壇は割肌、中層部には目の細かな御影石、上層部の2階3階には茶色のタイルを貼り、屁を四周に廻しています。玄関のペディメントを支えるイオニア式の柱は古代ギリシャの古典主義建築であります。この見事なプロポーションの建物は「西本建設工業(旧西本組)」の本社ビルとして昭和3年に建築されました。設計は創業者の親戚岩井信一さん。戦前は、日本各地や満州などの鉄道建設工事を一手に引き受け、従業員700人を越える大企業で、昭和初期には日本で第9番目に位置するゼネコンであったのです。

ビルの前で説明を聞く参加者 屋上へはこのハシゴで 屋上より紀ノ川を望む

7.七曲市場

 和歌山城の西部 "雄湊地区" には "材木丁" "植松丁" "北甚五兵衛丁" "七曲がり" な ど昔ながらのユニークな地名が今でも残されています。この一帯に「七曲市場」がありま す。南北に続く通りが鉤状に何度も屈折していたので江戸時代後期に「七曲市場」と名付 けられたといいます。市場が少なくなった現在、賑わいを感じる市場の一つであります。 もっと市場の楽しさを知ってもらいたいものです。

8.正住寺


 紀州徳川家初代藩主徳川宣信おかかえの力士「象之助鬼勝」の墓所が、「正住寺」にあり ます。墓石は等身大で、身長七尺四寸五分つまり2m23cmであったといいますからすご い高さです。


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