今回は南先生のご提案により、
南先生のご自宅訪問や地元の池上曽根遺跡等の見学も予定されていた。
幕末の国学者であり勤王の歌人であった佐久良東雄は、常陸国新冶郡浦須村の庄屋飯島家の出身であった。住職から還俗し、江戸に出て平田篤胤門下で国学を学び、藤田東湖などと交わる。池上村庄屋の南繁信とは、江戸の渡辺華山邸で出会ってから交流が始まり、勤王の志に燃える両名は意気投合した。東雄は池上村の南邸に住み、繁信らと共に近畿を中心に勤王運動のオルグ活動を展開した。南邸には約3年ほど滞在したようであるが、彼が住んだ茶室が今もそのまま残っている。のちに大阪市内の坐摩(いかすり)神社の神官を勤めたが、桜田門外の変に呼応して近畿でも行動を起こそうとした高橋太一郎父子をかくまった罪で逮捕され、江戸伝馬町の獄に繋がれた。獄中で彼は幕府の差し出す食事を拒み、50歳で獄死した。
邸内の歌碑は、東京帝大平泉教授の書いた顕彰碑である。
説明する南先生(82歳) |
A石州流庭園と織部灯籠
奥の庭園は、武家流茶道の石州流二代目家元の藤林宗源のつくった庭。大和郡山小泉藩(片桐家)の家老であった宗源は、もと和泉府中の河合家の出身、泉大津の藤林家を継ぎ、小泉藩の家老となる。文化人的素養も深く、武家流茶道の指導者として活躍した。宗源の庭園は、ほかに泉大津市の田中本陣庭園などがある。 庭園内には古田織部が考案したと云われる織部灯籠がある。別名マリア観音とよばれ、隠れキリシタンが信仰を密かに守るために灯籠にキリスト教のシンボルを仮託したものともいわれる。
B村上水軍の墓
三島村上水軍のうち来島村上氏の一人、村上彦右衛門義清とその子孫の五輪塔墓4基。村上水軍の中で、因島村上氏と能島村上氏は毛利氏と伊予の豪族河野氏方についたが、来島村上氏は信長・秀吉についた。義清は、のち黒田長政、福島正則に仕え、文禄慶長の役で朝鮮侵略戦争にも参加したが、福島正則が改易されてから紀州徳川家に水軍の腕を買われて仕えた。4200石の家老待遇であった。正面の
最大の五輪塔が義清のもので、長男の才蔵が建てた。あとの3基はいずれも子孫のものと考えられる。もともと大阪市内上本町にあったものを、大正時代に電車の線路を敷設するために移転せざるをえなくなり、宗教美術の研究家として知られていた南家に譲られたという。
総工費70億で建てられた 弥生文化博物館 |
三億円かけて復元された弥生 時代の建築「いずみの高殿」 |
日頃は見れない屋根裏の カギを開けてくれる南先生 |
屋根裏には弥生時代には なかったスプリンクラーや 梁補強の鉄製の支柱が・・ |
挨拶する世話人代表 宗片弘吉氏(4期) |
乾杯の音頭をとる世話人 角前克己氏(12期) |
先生の若かりし頃のファッションの 思い出を語る道浦 耐氏(13期) |
今回応援に参加してくれたお孫さん | 奥様(80歳) |
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